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フレデリック・ショパン

数多くの美しいピアノ曲を世に残し"ピアノの詩人"とも称される音楽家、フレデリック・ショパン。誰しもが一度は耳にしたことのある名曲を作った作曲家として、音楽史にその名を残すショパンですが、生前はピアニストとしても名声を得ていました。パリの社交界でも活躍し、39歳の若さで亡くなった19世紀の天才ピアニストの生涯

4歳で初めてピアノを弾き、7歳にして作曲を行った早熟の天才

動乱の故国から逃れ、音楽の都ウィーン、花の都パリで手にした大成功

ピアニストとして、作曲家として、ともに能力を発揮できると自負しています。私の作品の特徴は、叙情的でときに力強く、深い内省性を表現したピアノ曲。表現する感情の起伏に応じて、楽曲の速度を自由に加減して演奏し、半音階的な和声と転調を効果的に使います。
そして"ポロネーズ"や"マズルカ"など、ポーランドの民族舞曲にインスパイアされた曲も数多く手掛けました。これは、音楽によって祖国への愛を表現するためでもあります。

ごくわずかの作品を除いて、ピアノ曲だけを書いたという点で、ユニークな作曲家ともいえるショパン。演奏活動は大聴衆の前ではなく、主として親密な人たちを集めたサロンで行われました。大観衆の前での演奏が好きではなく、作曲と貴族階級の人々へのピアノレッスンで収入を得ていました。
ピアノを弾く上で手の広がりはとても重要なのですが、弟子の小指の長さを定規で測ったこともあるそうです。また、自身の細い薬指にはコンプレックスを持っていたとか。

ショパン 1810‐1849

ポーランドの作曲家、ピアノ奏者。フランス人の父とポーランド人の母の間にワルシャワ近郊で生まれる。幼時からピアノを習い、8歳で公開演奏会を開く。ピアノ、作曲ともにほとんど独学で修得し、幼くして知った J. S. バッハとモーツァルトの音楽はその音楽観に深い影響を与えた。中学校に入学後はポーランド各地を旅してポーランドの民俗音楽に接し、ポロネーズやマズルカへの関心を深める。1826年-1829年ワルシャワ音楽院で和声と対位法を専攻し、1830年(ピアノ協奏曲第1番)(同第2番)を発表。この年ウィーン滞在中、ロシアからの独立を求めて(十一月蜂起)がワルシャワで勃発(ぼっぱつ)。帰国を断念して1831年パリに赴き、以後再び故国の土を踏むことはなかった。
パリでは F. リスト、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロアらと親交を結び、ピアノ奏者として名声を高めるとともに(12の練習曲)2集(1829年-1832年、1832年-1836年)などで独自の作風を確立。1836年には女性作家ジョルジュ・サンドと出会い、マリョルカ島やパリで共同生活を送る。その間、(24の前奏曲)(1839年)、(バラード第4番)(1842年)、(幻想ポロネーズ)(1846年)などの傑作が生まれるが、1847年サンドとの仲は破局を迎えた。結核によりパリで死去。作品は晩年の(チェロ・ソナタ)(1845年-1846年)などを除きほとんどがピアノ曲で、ほかに3曲のソナタ(1828年、1837年-1839年、1844年)、マズルカ、ポロネーズ、スケルツォ、ノクターン、ワルツなどがある。
なお、その名を冠した(ショパン国際ピアノ・コンクール)(音楽コンクール参照)は、ピアノ奏者の登竜門として世界有数の権威を誇り、課題曲はショパンの作品のみ。優勝者にオボーリン、ポリーニ、アルヘリチなど。関連シューマン/関連パデレフスキ/関連ベリーニ

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