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伊藤博文

日本の初代内閣総理大臣、伊藤博文をピックアップ。長州藩の農民の子として生まれながら、
維新の混乱の中で頭角を現し、日本のトップまでのぼりつめた男。首相だけでなく、枢密院議長、韓国統監、貴族院議長も務めた近代日本の立役者のひとりです。はたしてその生涯

もともとは攘夷派。英国留学後に開国派に転向

明治新政府発足後は要職を歴任し、初代内閣総理大臣に就任

私には2つの強みがあります。ひとつは人脈。特に、よき先輩に恵まれたことです。来原良蔵に始まり、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、大久保利通と常に私を必要としてくれる先輩がいました。彼らは学がなく身分も低かった私に、現場で仕事を教えてくれたのです。
それに加え、英国留学で身につけた英語のスキルが維新後は役に立ちました。初代内閣総理大臣就任の決め手も、英語でした。"これからの総理は外国電報が読めなくてはだめだ"と友人の井上馨が私を推薦してくれたことから、就任が決まりました。

生涯に4度総理大臣を務めた伊藤博文。44歳2カ月での首相就任は現在に至るまでの最年少記録です。日本の鉄道事業や女子教育も推進した明治の大政治家は、古来から食用を禁止されていた"ふぐ"を解禁させた人物ともいわれています。師の吉田松陰は"才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す。周旋(政治)の才あり"と後の活躍を予言するような言葉を残しています。
学歴がなく身分の低かった伊藤博文ですが、英語という当時としてはとても大きなスキルを持っていました。

伊藤博文 1841‐1909

明治の政治家。名は俊輔。号は春畝。長州萩藩の足軽出身。吉田松陰に学び、京都の志士と交わる。1863年藩留学生として井上馨とともに渡英。帰国後、下関砲撃の四国艦隊と和議を交渉、幕府の長州征伐には高杉晋作らと挙兵して藩の主導権を握る。維新後は外国事務掛などを歴任、開明派官僚として頭角を現し、1871年岩倉使節団には副使として随行。1878年大久保利通死後の内務卿となり、1882年憲法調査のため渡欧。
プロイセン憲法学説を学び、帰国後憲法立案の中心となる。1885年内閣制度を創設し、初代総理になり明治政府の実権を握る。1890年国会が開設されると貴族院議長。4度組閣。3度枢密院議長。初代統監となって日韓併合に尽力するが、ハルビン駅頭で朝鮮民族主義者安重根の弾丸に倒れた。

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