トップ » 菊池寛
菊池寛
芥川賞・直木賞の創設者としても有名な、大正・昭和期の作家 菊池寛。
作家だけにとどまらず、文藝春秋社の設立をはじめ、大映(映画会社)の初代社長、報知新聞の客員を務めるなど、実業界でも活躍した彼の半生
京都帝国大学を卒業し、時事新報社の社会部記者となる
- 1908年(20歳)⇒推薦で東京高等師範学校(筑波大学の前身)へ入学しました。
- 1909年(21歳)⇒授業に出席していないことが原因で除籍処分を受けました。その後、明治大学法科へ入学しましたが、約3カ月で退学し、第一高等学校文科(東京大学教養学部などの前身)への入学準備を始めました。
- 1910年(22歳)⇒徴兵から逃れるため、一時、早稲田大学政治経済学部に籍を置いた後、第一高等学校文科に入学しました。
- 1913年(25歳)⇒友人の窃盗事件の罪を着たことで、卒業3カ月前に退学処分となりました。その後、京都帝国大学(京都大学の前身)英文科に入学しました。またこの年、短編小説"禁断の木の実"が新聞の懸賞小説に入選しました。
- 1914年(26歳)⇒同人雑誌・第3次"新思潮"に参加し、翻訳物や戯曲を発表しました。
- 1916年(28歳)⇒京都帝国大学を卒業し、時事新報社に入社。社会部の記者となりました。この年、第4次"新思潮"を創刊し、戯曲"屋上の狂人"を発表しました。
作家としての地位を確立し、雑誌"文藝春秋"を創刊
- 1917年(29歳)⇒戯曲"父帰る"を発表しました。また、この年に書いた短編小説で、初めて稿料をもらいました。
- 1918年(30歳)⇒"中央公論"に"忠直卿行状記"などを発表し、文壇での地位を確立しました。
- 1919年(31歳)⇒最初の短編戯曲集を刊行しました。また、時事新報社を退職し、大阪毎日新聞社の客員となりました。
- 1920年(32歳)⇒"大阪毎日新聞""東京日日新聞"に小説"真珠夫人"を連載しました。
- 1923年(35歳)⇒文藝春秋社を創設し、雑誌"文藝春秋"を創刊しました。
小学生のころから読書欲が旺盛で、中学生になると市立図書館の蔵書2万冊のうち、中学生の読みこなせるレベルの本はすべて読破しました。18歳のときには"讃岐学生会雑誌"の懸賞作文で二等を取り、19歳のときには"日本新聞"の課題作文に入選し、その特典で初めての上京を果たしました。
作家としては、人生経験や人生観を創作に活かすことを重視し、"真珠夫人"では、構成の巧妙さと読者の心をとらえるように工夫し、"新聞小説、通俗小説として新境地を開いた"と高評価を受けました。
1935年、友人であった芥川龍之介と直木三十五の名を借り、"芥川賞"と"直木賞"を創設した菊池寛。川端康成や横光利一、小林秀雄といった後進の文学者を援助し、日本文藝家協会や大日本文芸著作権保護同盟の初代会長を務めるなど、日本文学の発展に貢献しました。
菊池寛 1888‐1948
大正・昭和の小説家、劇作家。本名寛(ひろし)。高松生れ。京大英文科卒。一高時代に芥川竜之介、久米正雄らを知り、第3次、第4次(新思潮)同人となる。戯曲(屋上の狂人)(父帰る)を発表したが認められなかった。1918年の(無名作家の日記)以後(忠直卿行状記)(恩讐の彼方に)(真珠夫人)などで一躍流行作家となった。1923年(文芸春秋)を創刊主宰、また文芸家協会を設立、芥川賞、直木賞を設定するなど作家の社会的地位の向上にも貢献した。