トップ » 西園寺公望

西園寺公望

清華家(公家の家格のひとつ)生まれの政治家 西園寺公望。住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、祐宮(後の明治天皇)の遊び相手として召されたという名家の出身。"最後の元老"として大正天皇、昭和天皇を補佐した政治家の半生

フランスで法学を学び、公使として海外で活躍

政治家として重職を歴任し、第12代内閣総理大臣に就任

フランス留学中に、多くの知識・経験や知人を得ました。当時のパリは、普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊、代わって樹立された革命政府パリ・コミューンとドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真っただ中でした。そんなパリで自由思想を学び、後にフランスの首相となるクレマンソーや、留学生仲間の中江兆民らと親交を結びました。こうして築いた人脈は帰国後も続き、自由民権運動への参加やパリ講和会議において活かされました。

大正天皇即位の際に"元老"となった西園寺公望。1924年の松方正義の死去以降、"最後の元老"として、大正天皇、昭和天皇を補佐しました。そして1940年、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立の2カ月後に、この世を去りました。

西園寺公望 1849‐1940

明治・大正・昭和の政治家。公爵。1924年以後は(最後の元老)。右大臣徳大寺公純の子。京都の生れ。号は陶庵。戊辰(ぼしん)戦争では山陰、北陸に転戦し越後府知事になる。フランスに留学、パリ大学を卒業、帰国後明治法律学校(明治大学の前身)を設立。中江兆民らと(東洋自由新聞)を発行し民権論を主張した。1882年伊藤博文の憲法調査に従って外遊し認められ、第2次、第3次伊藤内閣の文部大臣。1903年伊藤が枢密院に入ると政友会総裁に就任、1906年、1911年に組閣したが陸軍と対立して1912年総辞職した。以後は元老として首班推薦の任に当たり1918年には原敬を、1924年には加藤高明を首班に推すなど立憲政治・政党内閣制を支持した。
この間1919年パリ平和会議の首席全権をつとめた。1932年五・一五事件以後、軍部に対しては宥和(ゆうわ)策をとったがその進出を防ぐことができず、1937年第1次近衛文麿内閣を最後に後継首班推薦の任を辞した。

このページの先頭へ

高速検索リンク

このページの先頭へ

バナー

激安クラウド商品検索

「Webサイト構築セミナー」Movable Typeを使用して自社サイトを構築しよう!詳細はこちら。

書籍好評発売中「crema designの謎」

we-are-the-world ネットニュース menu

バナー

We-Are-The-World ネットニュースメールマガジン登録と解除

ホテルAPI検索

ファッションブランド

インターネット information

フードランド

ソフトウェア

歴史と文化

BBS

http://we-are-the-world.net/shopping/smart_search.php