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井伊直弼

井伊直弼は、"安政の大獄"の首謀者と目され、非道な仕打ちを行う"井伊の赤鬼"と揶揄され恐れられてもいました。避けられない世の中の流れから目を逸らすことなく、常に次の時代を見ていた彼の半生は、"桜田門外の変"で有名な、江戸時代の大名・井伊直弼

幕府の大老に就任し、日米修好通商条約を締結する

江戸幕府の大老として、"日米修好通商条約の締結"を推進しました。当時の世界情勢や、外国と日本との武力差などを考慮した末の決断でした。外国と戦争をせずに開国を決めた決断は、正しかったと確信しています。
また、彦根藩主としては、領内を何度も巡見してまわったり、藩政改革や、藩校弘道館の改革なども行いました。藩主就任直後には、先代が残したお金を、家来や領内に住む人に分け与え、彼らから慕われていたと自負しています。

勅許(天皇の許可)を得ないまま、日米修好通商条約を調印した井伊直弼。その後、彼は自身の政策に反対していた、水戸藩の家来や、幕府に反対する考えを広めていた吉田松陰など、多くの人を捕らえ、取り調べを行いました。
その結果、100人以上を処罰、うち8人を死刑にするという、厳しい処分を下しました。これが世にいう"安政の大獄"です。

しかしその後、井伊直弼は、江戸城・桜田門外で、水戸藩の脱藩浪士17名と、薩摩藩士1名に襲撃され、命を落としました。

井伊直弼 1815‐1860

幕末の大老、近江彦根藩主。1850年家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)と称し、藩政に努めた。開国和親を主張し尊攘(そんじよう)派と対立。1858年大老に登用され、将軍継嗣問題では一橋派を排して紀州和歌山藩主徳川慶福(のちの14代家茂)を迎え、また勅許をまたずに日米修好通商条約を結んだ(条約勅許問題)。
これに反対する水戸藩主徳川斉昭以下を強硬処罰し、安政の大獄を起こした。1860年桜田門外の変で暗殺された。直弼は諸学に通じ、なかでも茶道は石州流を学んで自ら一派を立てるほどであった。

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