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織田信長

混乱の戦国時代に"天下布武"を旗印に全国統一を目指すも、家臣・明智光秀の謀反によって、志半ばで落命した戦国大名 織田信長。
戦(いくさ)はもちろんのこと、関所の撤廃や貿易振興、楽市楽座など、経済面でも革命的な施策を行いました。弊害のある旧体制を否定し、新しい世の中の建設を目指した革命家の半生

桶狭間の戦いに勝利し、天下統一への第一歩を印す

237年続いた室町幕府を滅ぼし、天下統一を目指す

兵農分離を進め1年中出兵ができるようにし、新兵器であった鉄砲を導入し、初めて戦で有効に活用しました。そして配下の武将を軍団に分けて多方面作戦を実行するなど、軍事面で当時の常識を覆す、新しい取り組みを進めました。また、徹底した能力主義を採用し、家臣の出自にこだわらず、才能のある人材を積極的に登用しました。
羽柴秀吉は足軽出身、明智光秀は他家に仕えていましたし、柴田勝家は家督争いの際に弟・織田信行についた、いわば敵でした。そして、当時既得権益を握っていた寺社勢力に対抗し、彼らが各地に設置していた関所を撤廃し、街道を整備して自由な流通を確保し、経済活動を促進しました。同時に寺社勢力が取り仕切っていた専売組合"座"を廃止。
"楽市楽座"と称して商売の自由を保障することによって、領国内の経済を活性化させ、税収を上げ、武器の調達を容易にしました。

比叡山の焼討ちや一向宗のせん滅などを行ったおかげで、残酷なイメージもつきまとい"魔王"とも称される織田信長。前例のない改革を性急に推し進めるためには、強引な政策も必要だったのかもしれませんね。

織田信長 1534‐1582

戦国・安土時代の武将。織田信秀の子。幼名は吉法師。1551年家督を継ぐ。1560年桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を倒し、1562年三河(みかわ)の松平元康(徳川家康)と同盟、天下統一への手始めとして1567年美濃(みの)の斎藤氏を滅ぼし稲葉山城を岐阜城と改め、翌年足利義昭を擁して入京。しかし義昭との不和から1573年彼を追放。
一方、姉川の戦で浅井・朝倉両氏を破り(1570年)、延暦寺を焼き打ち(1571年)、長島の一向一揆(いっき)や興福寺を討ち、1575年長篠(ながしの)の戦で武田軍を破った。1576年安土城を築いて安土桃山文化の基礎を固めキリシタン文化をも摂取、統一政権樹立を進めたが、功業半ばにして明智光秀のため本能寺で自刃(じじん)。楽市・楽座の設置や関所の撤廃、検地などの新政策は豊臣秀吉に継承された。関連 本能寺の変

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