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与謝野晶子

反戦歌"君死にたまふことなかれ"の作者 与謝野晶子。短歌や詩を作る傍ら、新聞や雑誌を中心に評論活動も展開。平塚らいてうとの間に起きた"母性保護論争"では"婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない"と主張しました。日露戦争に従軍している弟へ向けて"戦争なんかで死なないで"と切実に歌った女流歌人の生涯

夫である与謝野鉄幹との出会いと処女詩集刊行

"明星"の廃刊と"母性保護論争"

23歳の時に刊行した"みだれ髪"では、後に夫となる与謝野鉄幹への想いを、包み隠さず表現しました。あまりにもストレートな恋愛表現は、慎ましやかな女性をよしとする道徳観を持っていた当時の人々には、簡単には受け入れられませんでした。しかし、当時著名な評論家だった上田敏から、新しい文学の誕生であると高い評価を受け、妻子ある鉄幹とのゴシップが原因で落ち込んでいた鉄幹主宰の雑誌"明星"の売り上げを伸ばすことに貢献しました。
結婚後は"文才あれど商才なし"といったふうの夫を助け、頼まれた原稿は断らずに執筆し、歌人・作家としてだけでなく、評論家・思想家としても活躍できたと自負しています。

"みだれ髪"でセンセーショナルなデビューを果たした与謝野晶子。その後も、女性の自立や男性の育児参加を訴えるなど、当時としては、先進的な考えの持ち主でした。歌人・作家・評論家として活躍しながら、母親としても11人の子どもを育て、さらには仕事を含め生涯に172回の旅行をするなど、かなりアクティブな女性でした。

与謝野晶子 1878‐1942

歌人。堺生れ。旧姓鳳(ほう)。本名しょう。堺女学校卒。1900年与謝野鉄幹の新詩社の社友となり(明星)に短歌を発表。翌年処女歌集(みだれ髪)を出して世の注目を集めた。同年鉄幹と結婚、(明星)の中心的存在となった。初期の情熱的な歌風は次第に唯美的・幻想的となり、(小扇)、(毒草)(鉄幹と共著)、(恋ごろも)(山川登美子らと共著)、(舞姫)などの歌集を出した。
日露戦争中の反戦的な詩(君死にたまふことなかれ)も反響を呼んだ。また古典の現代語訳を試み(新訳源氏物語)を刊行。大正期には広く女性問題、社会問題等の評論にも活躍、(青鞜)運動を助けたり、母性保護論争に参加するなどした。遺歌集(白桜集)がある。

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