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毛利元就

兄弟の助け合いの大切さを教える逸話"三本の矢"で有名な戦国大名 毛利元就。安芸(現在の広島県西部)の中の小さな領土から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大させた"中国地方の覇者"

毛利宗家の家督を相続し、安芸を中心に勢力を拡大する

領内の有力者や地方勢力との共生を念頭に置いた"集団指導体制"による政治体制を構築しました。"地方領主の独立性の高さ"が統治の特色であり、独裁とは程遠い体制です。家中に奉行制度を確立して政務を効率化させ、当主へのサポート体制を強固にすることにより、政権の基盤構築を成功させました。
また、領内の有力者であった吉川家、小早川家に、自分の次男と三男を養子に出し当主とし、毛利宗家をサポートする体制を確立、領国支配を盤石なものにしました。

死の間際に、3人の息子を枕元に呼び寄せ、"矢が1本ではすぐに折れてしまうが、3本まとめれば折れない"という教訓"三本の矢"を伝えたとされている毛利元就。実際は、3人にあてて書いた手紙"三子教訓状"をもとにした創作だとされています。

毛利元就 1497‐1571

戦国時代の武将。弘元の次男。庶子(しょし)であったが、兄興元、その子幸松丸の没後、1523年毛利氏家督を継ぐ。初め尼子晴久、のち大内義隆に属した。1529年、安芸石見(いわみ)国人(こくじん)領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼしその位置を継承、1541年安芸守護家の武田氏を滅亡させて広島湾に進出した。大内義隆がその家臣陶晴賢(すえはるかた)に殺されると、1555年厳島の戦で晴賢を破り、周防(すおう)・長門(ながと)・安芸(あき)を支配下においた。
九州豊前にも進出、大友氏と戦い、さらに山陰に進出、益田氏らを帰属させた。1566年尼子氏を降し備後(びんご)・石見・出雲・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)を平定、ついに山陽・山陰10カ国と豊前(ぶぜん)・伊予(いよ)の一部を領する戦国大名の雄となった。1569年には尼子勝久が出雲に、大内輝弘が山口に侵入したが撃退、蜂起した国人層を討伐して領国支配を確固たるものとした。元就は、大内氏・尼子氏という強大な勢力の間隙で戦い抜く優れた情勢分析と果断さを持ち、領国構造が国人連合に依拠することへの配慮と彼らとの交流に意を用いた。1557年毛利隆元(たかもと)・吉川元春(きつかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の三子に結束を説いた教訓状は有名。
信仰篤く文芸も愛好した。歌集に(春霞集(しゅんかしゅう))がある。元就画像は重要文化財。関連毛利家文書

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