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明智光秀

日本史上最も有名なクーデターと言ってもよい"本能寺の変"。今回は、その首謀者 明智光秀。出生から前半生、また本能寺の変を起こした動機など、わかっていないことが多数あり、謎の多い人物とされています。裏切り者とも有能な人材ともいわれる明智光秀の人生

朝倉・足利両氏に仕えた後、新興勢力・織田信長に仕える

織田家で最初の"城持ち大名"になるも、信長との間に亀裂が生じる

当時の最新技術であった鉄砲に未来を感じ、早い段階でその技術を身につけました。織田家に入ってわずか4年で城持ち大名にまで出世できたのも、主君・信長が同じ考えを持っており、活躍できる場を与えられたからだと思っています。合理的思考を大切にする点も信長と共通しており、戦国時代という変革期を、信長のもとで戦えたのは、光栄であり幸運だったと感じています。
また、尾張の織田家には京の文化に精通している人材が不足していました。その点私は、和歌や茶の湯にも精通しており、式典の際にも重宝されました。柴田勝家や丹羽長秀などの古参武将を差し置いて、最初に城持ち大名となり、実質的な織田家No.2の地位まで上り詰めたことは、大きな自信となりました。

この後、一度は天下を取ったものの、後に"三日天下"(この場合"三日"とはごく短い期間を表します)と称されるほど短期間にその地位を失った光秀。その生涯や人物評価には諸説あるものの、織田家中での異例のスピード出世を見るかぎり、有能な人物であったのは間違いないでしょう。

明智光秀 1528?‐1582

安土桃山時代の武将。通称十兵衛、のち惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称す。美濃(みの)の土岐氏の一族。織田信長に重用され、京都の庶政をつかさどったり、丹波(たんば)攻略などに活躍。
1582年信長を京都本能寺に襲撃し自殺させたが(本能寺の変)、豊臣秀吉に山崎の戦で敗れ、敗走の途中土民に殺された。細川ガラシャはその娘。

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