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武田信玄

"戦国最強"の呼び声も高い戦国大名 武田信玄。宿敵、上杉謙信との5度にわたる"川中島の戦い"や、"風林火山"の旗印で有名な戦国大名ですね。大名による独断で政治が進められた戦国の世で、合議制を導入して領地経営を行った有能な経営者でもある戦国大名

甲斐国守護の長男として生まれ、父を追放して当主へ就任する

永遠のライバル上杉謙信との、北部信濃を巡る対決"川中島の戦い"

戦国大名として領地経営を円滑に行うため、合議制を導入しました。会議で議題について重臣たちの意見を集め、それをまとめ上げ全員が納得のいく決定を下すようにしたのです。合議制は国を栄えさせる原動力となりました。
また、新田開発と治水工事にも力を入れ、通称"信玄堤"と呼ばれる堤防を築いて川の氾濫を抑え、さらには、弱まった川の流れを遊水地に引き込んで農業用水などに使えるようにし、収穫高を増加させました。治水工事と新田開発は、食料生産の効率を上げ、武田軍を支える大きな力となりました。

"人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり"という言葉を遺したとされる武田信玄。これは"大名を支えるのは領民や家臣といった"人"である。情で繋がった人の絆は味方を増やすが、仇や憎しみで繋がった人の絆は敵を増やす"という意味だそうです。
父・信虎を追放した後も、甲斐に戻すことはありませんでしたが、生活費などを今川家に送金していたといわれるように、この言葉は武田信玄の"人"を大切にする考え方が表現された名言です。

武田信玄 1521‐1573

戦国大名。名は晴信。幼名勝千代。号は徳栄軒。甲斐(かい)守護信虎の子。1541年父を追放し自立。信濃(しなの)の諏訪氏・小笠原氏を倒し、上杉謙信と数度にわたる川中島の戦で激突。
さらに駿河(するが)に進出。西上を志し、1572年遠江(とおとうみ)三方原で徳川家康に大勝したが、陣中で病死。甲州法度之次第を制定。治水、鉱山の開発など民政上の施策にもすぐれていた。

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