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猫田勝敏
ミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得した男子バレーボールチームで、セッターとして活躍した猫田勝敏。東京オリンピックからモントリオールオリンピックまで、4大会連続でオリンピック出場を果たし、金・銀・銅の3個のメダルを獲得した"世界一のセッター"の異名を持った彼の半生
6歳でバレーボールを始め、19歳で初の全日本入りを果たす
- 1950年(6歳)⇒広島市立古市小学校に入学し、バレーボールを始めました。
- 1956年(12歳)⇒広島市立安佐中学校に入学し、9人制バレーボールでセンターを務めました。
- 1959年(15歳)⇒崇徳高等学校に入学し、故・稲葉正文監督の下で、本格的なセッターを目指しました。またこの年、国民体育大会バレーボール競技高校男子の部で優勝しました。
- 1962年(18歳)⇒高校卒業後、日本専売公社広島地方局(現・日本たばこ産業株式会社広島支店)に入社しました。"専売広島(現・JTサンダーズ)"に入部し、6人制バレーボールを始めました。
- 1963年(19歳)⇒全日本男子バレーボール監督(当時)・松平康隆氏の目に留まり、初めて全日本入りを果たしました。
- 1964年(20歳)⇒東京オリンピックに出場し、銅メダルを獲得しました。
- 1968年(24歳)⇒メキシコオリンピックに出場し、銀メダルを獲得しました。
- 1969年(25歳)⇒"第2回バレーボールワールドカップ"で2位となり、"ベストセッター賞"を受賞しました。
- 1971年(27歳)⇒宮崎県延岡市で行われた招待試合で右腕を骨折してしまいました。
- 1972年(28歳)⇒約8カ月のリハビリ生活の末、NHK杯で復帰し、2カ月後のミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得しました。
6人制バレーボールにおいて、試合の流れを大きく左右するセッターは、非常に重要なポジションです。私は全日本のセッターとして、自分の判断次第で勝敗が決まると考え、厳しい練習に励みました。プレーにおいて大切にしていたのは、アタッカーが一番打ちやすい状態を考えてトスを上げることです。
アタッカーが一番打ちやすいといわれているオーバートスを上げるため、自分がどんなに無理な体勢でも、できる限りボールの下に入りました。また、左目でボールを見て、右目で相手のブロッカーを見て、いろいろなコンビネーションを考え、トスを上げました。
不動のセッターとして全日本男子バレーボールを世界一へと導いた猫田勝敏。36歳で現役を引退後は、専売広島の監督に就任し、日本リーグで采配を振るいましたが、1983年、胃がんのため39歳の若さで逝去。"紫綬褒章"の遺族追章を贈られました。